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足尾銅山と親ばかストーリー
この学校では、1年で1番大きな行事が学習発表会です。子供たちも先生方も、毎年たくさん時間をかけて、一生懸命準備します。
リコーダー演奏などいろんな発表がありましたが、その中の1つに「足尾銅山」についての発表がありました。
足尾銅山鉱毒事件と田中正造。
「昔、子供のころ、国語の教科書で読んだことあるなぁ。
確か、社会の教科書にも出ていたような。足尾銅山に観光にも行ったことあるなあ…。
なんとなく知っているけど詳しくは…。」
私の記憶はそんな感じでした。子供たちの発表で、逆に勉強させてもらいました。
1880~90年頃、それまで豊かだった渡良瀬川とその流域に変化が起きました。
数万匹の鮎が死に、稲や麦など作物は枯れました。
原因は上流の足尾銅山から出る鉱毒でした。
足尾銅山は亜硫酸ガスなどの有毒な煙も出しました。
その煙が周辺の木々を枯らしました。緑がなくなったために洪水が起きやすくなり、
その洪水が鉱毒の被害をさらに拡大させました。
この問題を解決し農民たちの生活を守ろうと、明治政府と闘ったのが田中正造です。
正造と農民たちは鉱業停止を求めましたが、それは受け入れられませんでした。
当時、国を豊かにし、国を強くすること(富国強兵って、昔習いましたねぇ)に
躍起になっていた明治政府にとって、
日本の銅の30%をも産出していた足尾銅山を停止することは、
お宝を、みすみす捨てるようなものだったのでしょう。
正造の闘いは、亡くなるまで続きました。文字通り命がけの闘いでした。
正造が亡くなったとき、手元にあったのは、
すげ笠と、新約聖書、帝国憲法、日記と小石などが入ったしんげん袋だけだったそうです。
発表で学んだことを、とても短くまとめてみました。「私の学習発表」です。
さて、子供たちの発表会では、
最後に、一人ひとりが、この学習を通して自分なりに考えたことを発表しました。
息子の発表、良かったら読んでみてください。原文そのままです。
僕は、この発表を通して、田中正造は尊敬すべき人だと思いました。
生涯をかけて、足尾鉱毒問題と、政府と闘い、
死刑を覚悟して天皇に直訴しようとしたのですから。
農民のためにこんなにも命をかけて闘える人はそうはいないと思います。
公害は他人のことを考えない工業家がいるから起きるものだと思います。
この問題の場合は、政府が国を強くするという一心で、
他を省みなかったから起こったものだと思います。
自己中心的な野望のために人を傷つけ、木を枯らし、
山をはげ山にしてしまうのは本当にいけないことだと思います。
政府は、人の命、生活より利益を優先しました。
「富国強兵」がそんなに大事ですか。
国は、国民がいなくなったら成り立たないのです。
大金を払えば命が戻ってくるのですか。そんなわけはありません。
谷中村の農民も、正造も、今、生きている人も、世界に二人として同じ人は存在しないのです。
そんな命をつぶそうとした政府を、僕は許せません。
私はこれを聞いて、母として、感動してしまいました。
作文が苦手で、読書感想文の時期には、毎年毎年ぐずぐず言っていた子が、
いつの間にか、
ちゃんと自分の意見を、こんなに力強く、伝える文章が書けるようになっていたなんて・・・。
すいません。親ばかです。でも、うれしかったです、とっても。
学校の先生にも感謝です。
同時に、「あなたはどうなの?」って息子に問われている気がしました。
「自己中心的なことをして、周りを犠牲にしてない?自然を犠牲にしてない?」と。
アーリーホームでも、環境を守るためにいろいろなことに取り組んでいます。そのうちの1つが「木を大切に使う」ことです。
柱などは、プレカット工場にて加工してから現場に運びます。
これにより現場での木材のゴミは大幅に少なくなります。
プレカット工場で出た木の切れ端は、工場にて、割り箸や木炭・竹炭・木酢液・竹酢液などの材料として利用されています。
棚を作るなど細かい造作や特別なものを作る際、現場での木の加工が必要な場合もあります。
そういう時に出る木の切れ端を利用して、
お施主さんのお好みで花瓶置き、お猪口を作ることも出来ます。
それでも残ってしまうものは、
薪ストーブを使ってらっしゃるお施主さんが、薪として引き取ってくださることになっています。
要するに、アーリーホームでは自然の恵みである「木」を、
ほとんど無駄なく利用させてもらっています。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、林を破らず、人を殺さざるべし」
田中正造の言葉です。
これは、家造りに携わる私たちも心に留めておきたい言葉です。
現状をよしとせず、常により良い方法を見つけていく姿勢を持ち続けていきたい、
子供の発表を通して、今改めてそう思っています。
赤井
投稿日:2008年11月14日